先日、とある小学校の4年生の授業でプラスチックごみ問題について話をさせていただく機会がありました。日頃から私たちは、学会やシンポジウムなどで研究成果を発表したり、研究内容を評価される場で研究計画や得られた成果を説明したり、はたまた大学等で講義をしたりと、人前で話をする機会が割と多くあります。研究所の一般公開イベントなどではご家族連れや高校生以下の方を対象に話をすることもありますが、やはりそれは例外的であり、基本的には大学生以上の大人の方、なおかつ専門性の近い方に話をすることが大半です。ところが今回は、相手が全員小学生という私にとっては初めての経験で刺激になりましたので、少しご紹介したいと思います。
昨今、海洋ごみやマイクロプラスチック問題がマスコミに多く取り上げられ、レジ袋の有料化や紙ストロー導入などのニュースを頻繁に目にしていることから、プラスチック全般にただただマイナスのイメージを持っている子供たちが多いことは想像に難くありません。たしかにプラスチック廃棄物の処理や海洋ごみの問題は深刻です。しかしながら、私たちの生活はプラスチックの利便性に大きく支えられている側面も否定することはできないでしょう。そこで今回の授業では、プラスチックには多くの種類があること、どんな特徴があるのか、なぜこれほど私たちの生活に浸透しているのか、といったことを説明することからプラスチックの問題について一緒に考えることにしました。
プラスチックの大きな特徴の一つは、様々な形に成形することが可能である点です。筆箱や消しゴム、定規など身近な文房具だけでなく、教室のカーテンやコロナ禍で必需品となった不織布マスクも繊維状に加工したプラスチックの一種であると説明すると、子供たちは目を見開いて驚いていました。子供たちがプラスチックと聞いて思い浮かべる代表的な製品は、ペットボトルやお菓子の袋、おもちゃなどとのことでした。それ以外の製品にも、プラスチックは幅広い用途で便利に使われている素材であることを改めて説明する必要があると感じました。
いろいろな立場や考え方があるので一概には言えませんが、私個人としては、プラスチックそのものが悪者なのではなく、必ずしも必要でないところにまでプラスチックを使っていることや、プラスチックごみを十分に管理できていないことが問題であると考えています。その一つの事例として、おびただしい量のプラスチックごみ等が市街地の道端に散乱している途上国の写真を見せたところ、教室のあちこちから「うわー、汚い、信じられない」という驚きの声が挙がるとともに、「うちの家の周りや通学路にもごみが落ちている」という声も聞こえてきました。本当にその通りで、私たちの生活圏でも多くのポイ捨てごみを目にしますし、人目につかない場所では、生活ごみが意図的に放置されているとしか思えないような不可解な場面に遭遇することも珍しくありません。程度の差こそあれ、日本のようにごみ回収の仕組みが整備されていてもなお、ごみの散乱を防ぎ切れていない現状は悩ましいものです。制度や仕組みだけの問題ではなく、住民の意識も大きく関係しているのでしょう。子供たちはそれを日常的に目にし、問題意識を持っていることに気づかされました。生活の基盤を支えるごみ収集が徹底されていない国々の状況をいかに改善していくか、ということも、地球規模のプラスチックごみ問題を解決する糸口の一つだろうと伝えました。
真剣なまなざしで話を聞き、ストレートに反応を示し、矢継ぎ早に質問や感想、自分たちの知っていることを口にしてくれる、そんな子供たちとの対話はとても活気にあふれ、楽しいものでした。私自身は、学校で出るごみは敷地内の焼却炉で燃やされ、ガラス瓶に入った炭酸飲料を飲んで育った世代です。その後、便利な飲料用小型ペットボトルが出現して瞬く間に普及、ダイオキシン汚染が社会問題になり学校の焼却炉や野焼きが廃止され、リサイクルの是非が議論されるのを耳にして育ちました。一方で、目の前にいる子供たちは生まれた時からペットボトルが当たり前に普及し、物心がついた時からごみの分別回収やリサイクルが身近な環境で育っています。インターネットの利用も加速し、私の子供時代に比べると情報量にも雲泥の差があるでしょう。この子たちの当たり前や発想の転換が今後の社会を作っていくのだろうと思うと、環境問題一つをとっても、子供たちができるだけ広い視野をもって自らの意思で物事を選択していけるような柔軟な社会であることを望むとともに、小学生の皆さんの好奇心に満ちた力強い表情から日本の将来は結構明るそうだな、と頼もしく感じた一日でした。見たこと聞いたことすべてが血肉になるこの時期に、私のつたない授業が何かのきっかけになってくれたら嬉しい限りです。