循環型社会・廃棄物研究センター オンラインマガジン『環環kannkann』 - ごみ研究の歴史
2007年4月2日号

第4回

井上雄三

 今回は、し尿処理の話です。今は、水洗トイレが普及しているため、その処理が昔は大変だったと言われてもピンとこないかもしれませんが、水洗トイレが、もし社会から無くなったとしたら用を足したあとはどうなってしまうのか、想像しながら読んでください。

5.必死だった戦後20年間のし尿処理

 ずっと昔には、わが国ではし尿は処理しなくとも、貴重な肥料として利用する文化が根付いていました。江戸時代中期にはし尿のリサイクルシステムが完成していたのです。同じ時代に欧州が行っていた三圃式農業のように三年に一度の休耕をしなくても、し尿を肥料として利用することで農業生産を持続的に行うことができたので、 江戸時代の日本では3千万人もの人口が維持できたのです。しかし、昭和に入り農業よりも工業が発展し、そして農村から都市に次第に人口が集中してくると、し尿の供給がだぶつきはじめ、都市部ではし尿の浄化や海洋投入処分をせざるを得なくなりました。図1は昭和12年(1937)から平成10年(1998)にかけての東京都のし尿処理がどのように変化してきたかを示したものです。

図1 東京都のし尿処理処分の変遷(「東京都清掃事業百年史」のデータを利用)

 昭和8(1933)年、東京市(当時)はし尿処施設綾瀬作業所を建設し、1日180kLのし尿処理を開始しました。この処理施設は促進汚泥式処理法(現在も使われている活性汚泥法という生物学的な汚水処理法)という当時としては最新鋭の技術が使われていました。しかし、私はむしろ、当時の言葉でバイオリシスタンクといわれた (現在のバイオガスタンク(微生物によってメタンガスを発生させる反応タンク)に相当)技術が使われたことに驚いています。この技術開発の立役者が西原脩三(西原衛生工業所の設立者)でした。綾瀬作業所は戦争が激しくなった昭和18年で閉鎖されますが、蓄積された技術は戦後し尿処理に窮したとき、砂町し尿消化槽の建設・運転に大きく貢献したのです。

 戦後になると、食料増産と都市の公衆衛生を保つために国は農地還元策を進めます。肥料も大量に必要になりましたので、東京都から埼玉県などにし尿の貨車輸送が行われました。ところが、昭和20年代半ばになると化学肥料が大量に利用されるようになったため、し尿の需要は急速に低下しました。悪いことに、これに拍車をかけたのが連合軍総司令部(GHQ) 指導で昭和25年に作成されたいわゆる「し尿の直接農地散布禁止令」です。その結果、し尿が町中に溢れ、河川、湖沼、湿地や窪地、沢や谷、沿岸部ありとあらゆるところに不法投棄され始めたのです。読者の皆さん、これがどんな結末を招いたか想像できますか? 伝染病の大流行です(図2)。このため、毎年多くの子供が亡くなりました。

図2 わが国の水系伝染病の罹患率の推移

 さて、困ったのは政府や自治体です。それまで、し尿処理技術の研究は、西原衛生工業所など一部の民間企業や大学、国立公衆衛生院(現在の国立保健医療科学院)などが行っていたに過ぎません。農地還元が主な処分方法でしたので、浄化技術の研究などする必要もなかったからです。戦後の農業、社会システムの激変にし尿処理技術が全く対応できなかったのは当然でした。 政府はし尿処理に緊急に対応せざるを得なくなり、昭和29年に制定された清掃法で決められた施設整備のための国庫補助金は、その大部分がし尿処理施設の整備に当てられました。かくして、東京都には、超大規模な砂町し尿消化槽(注)が造られ、都内で発生するし尿の実に38%を処理したのです。しかし、何せ相手はし尿ですのでその道のりは大変だったようです。当時の研究者には心から敬意を表したいものです。 当時、西原が促進消化法を開発し、欧米の消化技術と同じレベルにまで達したお陰で、わが国は赤痢菌による伝染病から開放されました。ところが、し尿には大量のアンモニアと色成分が含まれており、消化処理後の仕上げ処理でその後大変な苦労をすることになるのです・・。

注)し尿処理量が昭和27年(1952)には1,800kL/日、34年(1959)には2,700kL/日に達した。消化槽20基。

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