2006年12月18日号
第2回井上雄三
「ごみ研究の歴史」第1回(11月5日号に掲載)は読んでいただけたでしょうか。第1回と第2回で、我が国の"ごみ処理"の歴史を、縄文時代から現代まで遡ります。 3.ごみ処理の歴史:明治時代から現在まで明治時代になり外国との交易が盛んになると、伝染病対策が緊急の課題となり、水道の整備、し尿やごみなどの汚物の処理の重要性が認識され始めます。そして、明治33(1900)年には汚物掃除法が制定されました。このように明治国家により整備が進んだ近代法はごみ処理の分野まで及んだのです。この法律で、ごみ処理事業は市町村への義務が課せられることとなりました。また、「塵芥はなるべくこれを焼却すべし」として、このとき以来ごみ焼却がわが国の主要な処理方法と位置づけられることになったのです。しかし、当時は未熟な技術でしたので、高価な焼却炉の建設には大変な苦労を強いられました。焼却炉を作っても煙害問題で紛争に悩まされたのです。昭和8(1933)年の深川煤煙騒動はその典型的な事件でした。 戦後、江戸時代にかたちづくられたし尿のリサイクルシステムは、19世紀後半に利用され始めた化学肥料によってわが国に劇的な変化をもたらしました。社会の中で肥料から無用物となってしまったし尿は、公衆衛生上大きな問題をおこし、浄化するための施設が緊急に必要となりました。ごみについても、昭和30年代の高度経済成長とともに増え続け、その中身も生ごみ中心からプラスチックや粗大ごみなどに大きく変化してゆきました。また、生産活動などから大量に発生し、かつ有害な物質を含む危険のある産業廃棄物を適正処理する必要も生じました。昭和45(1970)年のいわゆる「公害国会」では、現在もごみ処理制度の基本となっている「廃棄物の処理及び清掃に関する法律(廃棄物処理法)」が制定されました。しかし、増え続けるごみの量や質の変化に対応することできず、燃焼の過程で微量に発生するダイオキシン類などがごみ焼却施設から排出され、国民に大きな不安を抱かせた時もありました。例えば、昭和58(1983)年に初めて発表されたごみの焼却によるダイオキシン類の環境への放出は、平成11(1999)年のテレビ報道で最高潮に達する社会問題となりました。また、ごみに含まれる有害物質の環境汚染が問題となり、大量生産・大量消費・大量廃棄から発生抑制・再使用・再生利用を基本理念とした新しい生活や経済のあり方が問われるようになりました。いわゆる循環型社会への移行が求められるようになったのです。 平成4(1992)年ブラジル国連環境開発会議(地球サミット)で採択されたアジェンダ21では、人類の持続可能な発展のための具体的な行動計画が提案されました。この行動計画の中には、ごみに関する章も設けられています。ごみの問題が地球規模で考えるべき環境問題のひとつとなってきたのです。わが国でも、ここ10年の間に、循環型社会形成推進基本法、改正廃棄物処理法、改正リサイクル法や、それに基づく様々な各種リサイクル法(容器包装リサイクル法、家電リサイクル法、建設リサイクル法、食品リサイクル法、自動車リサイクル法、グリーン購入法)が次々と整備されました。そして、行政、産業界、国民の協力のもと脱温暖化、資源保全、そして環境負荷の少ない未来社会−循環型社会の形成を21世紀の最も重要な課題として取り組むようになったのです。 ※いよいよ次回からは、"ごみ研究"を振り返ります。お楽しみに! <参考にした資料(例)> |
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