2007年1月22日号
第3回井上雄三
4.日本におけるごみ研究の先駆け(明治から戦前にかけて)伝染病対策や産業革命後の都市ごみ対策として19世紀後半、イギリスで開発された都市ごみ焼却炉は、わが国にとっても救世主となりました。明治30(1897)年、イギリスに遅れること23年、敦賀にわが国初の都市ごみ焼却炉が建設されました。 前回お話ししましたように、汚物掃除法で都市ごみの焼却が義務づけられましたが、当時の都市ごみ焼却炉は煤煙や悪臭を撒き散らし、周辺地域に多大な被害をもたらす公害施設でした。しかし、何人かの技術者が都市ごみに挑戦しました。第3回はそんな研究者の挑戦の物語です。 ●わが国独自の焼却炉の開発ごみは簡単に燃やせるものと思われるかもしれませんが、ものが燃え続けるには800kcal/kg以上の熱量が必要です。わが国の都市ごみは、欧米の都市ごみと異なり水分をたっぷり含んだ厄介者で、戦前の都市ごみ(熱量600kcal/kg程度)の焼却は、実に大変な事業でした。ごみの焼却はいかに炉温を高温にし、 煤煙や悪臭の原因となる未燃有機物を減らすかです。技術者の飽くなき努力により昭和初期に乾燥工程を炉内に持つ傾斜炉が開発されました。その立役者の一人に民間技師矢野雅雄がいました。彼の度はずれのごみ焼却へのこだわりは、「帰宅後に背中からウジ虫が出てきた」とのエピソードを生むほどでした。この炉形式は優れもので戦後昭和40年頃まで採用されることとなります。●大阪市と3人の技師の挑戦イギリスに遅れること四半世紀、わが国で初めて木津川河口南恩加島町に通風式焼却施設を建設した大阪市の先進性は賞賛に値するサプライズでした。これを用いたわが国初めての実炉によるごみ焼却実験が大正8〜9(1919〜20)年に行われ、塵芥処理方法調査報告書にまとめられました。それは単なる実験結果報告書ではなく、ごみ処理技術の紹介、外国のごみ処理の現状、国内外特許一覧、ごみ発電計画など、ごみ処理技術の全容を鳥瞰した意欲的なものでした。 その中心に若い3人の技師、岸本寛治、岩崎元亮、中島信蔵がいました。既に西欧のごみ焼却施設は大規模な発電を行っていましたので、若い研究者が発電の可能性を追求しないはずがありません。実験結果を基に大阪市の都市ごみの全量焼却発電の可能性を検討しています。ごみの成分から発電量と利益を試算しましたが、実現はしませんでした。水も滴るようなごみでは安定な燃焼ができなかったからです。岩崎と大阪市は更に挑戦を続けました。大正11(1922)年には乾留炉とボイラー付き焼却炉を連結したマテリアル・電力回収型都市ごみ処理実験施設を建設し、実験を行ったのです。●失敗、そして得たものは?実験の目的は、「都市ごみを焼却して、原料を余熱乾燥しかつその熱を利用して都市ごみを乾留し、ガス燃料と固形燃料を作り、同時に衛生的に処理する」とあります。技術の未熟な半世紀も前に、かつてのスターダスト'80(注:80年代に実施されたごみを資源化利用する大プロジェクト)、そして今日の熱分解ガス化や炭化技術の先駆けとなる実験を行っていたのです。自動給塵装置、燃焼炉、乾留窯、ガス洗浄装置、ボイラー、そして発電・・。 なんと画期的で挑戦的な実験だったのでしょうか!乾留実験は失敗に終わりました。しかし、炉を改造しながらの焼却実験は、高温焼却(1000℃以上)を達成するなど大きな、また多くの科学技術的知見を集積しました。この一連の挑戦的な実験によって初めて、わが国の都市ごみ焼却が科学技術の表舞台に立つことができたのです。●東京市深川ごみ処理工場の建設、そして戦争へその後東京市に移った岩崎は、当時混乱をしていた東京市の塵芥処理方式を収拾し、昭和8(1933)年には戦前わが国で最大級の日処理量700トンの深川塵芥処理工場を完成させ、戦前の技術発展を牽引しました。この間、戦前におけるごみ処理研究報告の集大成となった塵芥処理方法調査報告(東京市役所)の刊行、ごみ焼却発電、ごみの堆肥化、アルコール発酵などの有効利用の研究が岩崎を中心に行われました。戦争が激しくなるにつれ、ごみ焼却施設は次々と他の用途に転用され、ごみ処理は全てストップし、都市衛生環境は最悪の事態となり、やがて終戦を迎えます。<参考にした資料(例)> |
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