循環型社会・廃棄物研究センター オンラインマガジン『環環kannkann』 - ごみ研究の歴史
2007年12月10日号

第6回

井上雄三

 読者のみなさま、長らくのお休みをお許しください。なかなか筆が進まず、半年ものブランクを作ってしまいました。

7. 二つの国立研究機関におけるごみ研究の始まり

 さて、いよいよ廃棄物研究の本丸をご紹介するところまで来ました。歴史はまさにわが国未曾有の公害禍の時代に入ります。そして昭和45(1970)年、公害国会の最中にごみ処理を現在のスタイルとした 「廃棄物の処理及び清掃に関する法律(廃棄物処理法)」が制定されました。この時期に、厚生省(当時)と環境庁(当時)の二つの国立研究所、それぞれ、国立公衆衛生院(昭和13(1938)年設立、 現在の国立保健医療科学院)と国立公害研究所(昭和49(1974)年設立、現在の独立行政法人国立環境研究所)でようやくごみ処理研究が開始されたのです。しかし、この二つの研究所はそれぞれ違った道を歩き始めました。 国立公衆衛生院では、国の政策を支援するための廃棄物の適正処理技術の開発を中心に、国立公害研究所では、ごみ処理プロセスの環境面の評価を中心に研究が進められましたが、二つの研究所のごみ処理研究が共同で行われるまでには実に20年を要し、 平成13(2001)年に行われた両研究所のごみ処理関連部門の再編まで待つことになるのです。

 二つの研究所による共同研究の開始が遅れたことも一つの理由かもしれませんが、わが国のごみ処理の歴史の中に大きなインパクトを与えたごみ焼却によるダイオキシン類の環境への放出を最初に発表したのは、 ごみ処理研究を専門的に行ってきた二つの国立研究所ではなく、昭和58(1983)年の愛媛大学の立川教授によるものでした。このような大きな発表が、他機関に先を越されてなされた理由は他にもありました。国立公衆衛生院における昭和40年代後半〜平成初期(1970年代〜1990年代) にかけての最も重要な研究課題は、都市ごみの埋立処分関連の研究でしたし、国の重要政策も同様でした。一方、ごみ焼却炉の技術開発は、もっぱら焼却炉メーカーの技術者に委ねられていたのです。国の政策を支援する国立研究所が、 ごみ焼却における重要な化学物質の研究について先陣をきれなかったことは、研究のあり方に課題を残す大きな事件であったと言わなければなりません。

 しかし、ごみの埋立処分もまたダイオキシン類に勝るとも劣らないぐらい重要な課題でした。平成4(1992)年には、東京都日ノ出町の谷戸沢処分場の漏水問題をきっかけに、国民の埋立処分場に対する不信感が一気に吹き出しました。各地で埋立処分場へのごみ搬入差し止め、 埋立処分場の建設差し止めの反対運動や訴訟が起こり、政府のごみ処理政策に赤信号が灯ったのです。国立公衆衛生院では、大学や遮水シートメーカー、ライナー(遮水設備)建設企業との共同研究で埋立処分場の漏水を防止する技術の開発研究(遮水工設計マニュアルの作成や漏水検知システムの開発など) に力を注ぎ、埋立処分場への国民の信頼感を取り戻すことに尽力しました。

 また、平成にはいると、モノが作られてから捨てられるまでの環境負荷を総合評価するライフサイクルアセスメントを用いて、ごみ処理とリサイクルを比較する研究が、国立公衆衛生院と国立環境研究所でともに行われました。このような研究は、 現在でも循環型社会を形成するための様々な政策形成に役立てられています。また、ごみの焼却によるダイオキシン類の環境への放出は、平成11(1999)年のテレビ報道で最高潮に達する社会問題となりましたが、国立公衆衛生院では、昭和57(1982)年よりこの問題に関する研究を開始し、 当時より蓄積された成果がガイドラインやインベントリー(どのような施設からどのくらいのダイオキシン類が発生しているかの目録)の作成に活用されました。国立環境研究所では、より広範にごみ処理施設から発生する可塑剤などの微量有害化学物質を把握する研究を行ってきました。 また、地球環境問題への対応として、ごみ処理施設からの温室効果ガス発生量の推計や対策に関する研究が、平成2(1990)年から国立公衆衛生院で行われ、地球温暖化に関する条約機関への報告の基礎となるなどの成果が得られています。

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