2006年11月5日号
第1回井上雄三
1.はじめに今回から10回程度、「ごみ研究の歴史」について連載をします。その内容をはじめにお知らせしておきましょう。処理しなければならないごみの量や質は、時代とともに著しく変化してきました。ごみ処理に関わってきた技術者や研究者は大変苦労をしましたが、 気概を持って対処してきました。この連載は彼らの挑戦の記録です。これを読めばあなたもちょっとしたごみ博士です。歴史というと難しいイメージを持つかもしれませんが、学生の方にも関心を持ってもらえるよう頑張りますので、楽しみにしてください。 第1回と第2回は、わが国の"ごみ処理"の歴史を中世から現代まで一気に駆け上ります。そして、第3回からがこのシリーズの本題である研究に関する話題となります。明治から戦前の近代まで、ごみ処理技術は大変未熟で、技術開発は大変苦労をしました。 第3回では近代のごみ研究を検証します。以下、戦後大きな苦労を伴ったし尿処理(し尿とは、人の排泄物で、尿とウンチのことです)、西(福岡)から始まったわが国の埋立処分研究、昭和45(1970)年に開始された旧国立公衆衛生院での研究、 世界最高の技術レベルを築いたし尿処理技術、いくつも山を越さなければならなかったごみの焼却技術開発、いつも地域住民の矢面に立たされた最終処分場に関する研究、PCBや重金属など無害化技術研究、資源保全や脱温暖化も考慮に入れた資源化技術への転換、 情報の大切さ、そして最後に私たちの社会を循環型社会に導くために必要なものは何か、などについて研究者の心髄をお見せましょう。 2.ごみ処理の歴史:縄文から江戸時代までみなさんは貝塚を知っているでしょう。集落に住むようになった古代人は、縄文時代の昔から、貝殻などのごみを捨てるための一定のごみ捨て場を定め、居住空間から遠ざける知恵を持っていたんですね。 大和王朝誕生後もごみ問題は存在したようですが、かつては宮都を一代ごとに転々と移動していたので、ごみ問題も処理できる範囲に留まっていたようです。しかし、平城京が84年で平安遷都を余儀なくされた背景には、 都市の中で処理をしきれなくなったごみ問題が一因であったとの説もあるようです。このようにわが国のごみ処理の歴史は非常に古く、驚くことに平安京にはすでに掃除に携わる官職がありました。掃部寮(かもんのりょう)といい、 宮中の掃除や調度設営などを担当していました。延喜式(えんぎしき)という法律には清掃や掃除のことばが数多く記述され、京の生活環境を保っていました。道路を清掃する命も、当時すでに発せられています。鎌倉幕府時代の歴史書吾妻鏡(あずまかがみ)にも寺や道路の掃除の話題が述べられています。 くみとり便所もそのころ発明されたようです。江戸時代になると江戸や大阪で都市が発展し、ごみ処理が大きな問題となりました。芥改役(あくたあらためやく)を配置するなど、町をきれいに保つためのごみ処理に江戸幕府は苦労をしていました。そのお陰か、外国人が書いた文献によれば、 江戸の町の清潔さは、当時の欧州の状況に比べ、非常に際だっていたようです。一方、し尿のリサイクルをはじめ、桶を修理する箍屋(たがや)、古着屋、古鉄買い、紙屑買いなど修理・再生・回収の専門業による循環型社会がかたちづくられ、21世紀の見本のように言われています。しかし、 それでもごみが町に捨てられるので、三代将軍家光や四代将軍家綱は、堀や川、会所地(町単位に作られていた空き地のこと)へのごみの投げ捨てを、悪臭や美観上の問題から禁止する町触(まちぶれ)を出し、不法投棄の防止に努めたのです。その代わり、明暦元(1655)年幕府は深川永代浦をごみ捨て場に指定しました。以来18世紀半ばまで、 江戸周辺だけでもごみ捨て場は10ヶ所にも及び、延べ約125haが埋め立てられたといわれています。 <参考にした資料(例)> |
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